Kaiserswerth(2004)

かつてのドイツ帝国直属都市であるKaiserswerthは、Düsseldorfの中心とDuisburgのちょうど間に位置するライン川沿いの町です。この辺りの川の流れは、蛇行が少なく、13キロ先まで見渡すことができます。以前のKaiserswerthは、南はLohausenから、北はWittlar間での約4キロのライン右岸に横たわる島(WerthはInsel・島の意味)でした。 このように”島”であったことと”見晴らしが良く戦略的に有利な場所”であったことが、Kaiserswerthの歴史を特徴づけました。
また交通の視点から見ると、交通路としてのライン川は道路と鉄道の陰に衰退していきましたし、歴史上の保持という目的の下に経済的発展も立ち遅れてしまいました。今は、ライン川の観光船、及び、Meerbusch側との渡しとしてのフェリーが船着場につき、天気の良い週末ともなると大勢の人で、にぎわっています。

★歴史

ライン川はローマ帝国時代から主要な交通ルートであり、特にKaiserswerthはローマ帝国の直轄地、現在のKölnとXanten(紀元後2世紀頃最も栄える)中間に位置し、人や物資がさかんに行きかい交通の要所であったといわれています。

Kaiserswerthの名が歴史に登場するのはその数世紀後のことで神聖ローマ帝国を築いたカール大帝(748〜814 独語:Karl der Große、フランク族)の先祖が7世紀にKaiserswerthにFronhof(陣営地)を建設したのがはじまりです。その後カール大帝の父、フランク族の王 Pippinがイギリスからやってきたベネディクト派の僧Suitbertus(St.Suitbertus)に土地の一部を与えました。8世紀、その地にライン川右岸で最も古いベネディクト派修道院及び教会(現在のSt. Suitbertus教会)が建設されました。

その後Kaiserswerthは神聖ローマ帝国直轄地としてまた、布教活動の重要な地として発展、1181年にKaiserswerthは市の権利(Rheichsstadt)を取得(Stadterhebung、1288年のデュッセルドルフより歴史は古い)、その後、大司教区Kölnの影響下でますます発展しました。しかし数々の戦争に巻き込まれ18世紀19世紀には衰退の途をたどり1929年デュッセルドルフ市の合併、現在ではStadt-Kaiserswerthはデュッセルドルフの一地区です。

Stift(修道院)、Pfalz(居城)、Stadt(町)、この3つのそれぞれの権力の動きを見ていくことが、この街の歴史を見る上のポイントです。

★町の風景

Altstadtは、かつて島の上に存在し、町(Altstadt)全体が城の要塞で囲まれていました。その要塞の形状は、5箇所の突出部のある星型を半分に割ったような形をなし、外敵からの大砲による攻防に備えました。そして、その5箇所には、それぞれKaiserswerthゆかりの聖人、St.Maximillian, St.Suitbertus, St.Caspar, St.Melchior, St.Balthasar (地図上、北から時計回り)の名が付けられていました。また、当時島であったAltstadtと外を結ぶ通路は3箇所、北東に出られる道(Friedrich-von-Spee-Straße)、南の門(Kuhtor)、そして西側のライン川への出口でした。

主な見所は、U-バーンの駅(U-79 Klemensplatz)から、まっすぐ西方向にライン川へ向かう道(Kaiserswerther Markt)沿い、その南側に位置し教会のある広場(Stiftsplatz)、及び城跡に集中していますが、その他、An St. Swidbert沿いにも、歴史的記念建造物(Denkmal)が数多く残る町並みを見ることができます。

また、U-バーンの駅の東側(地図上では下)の広場(Klemens Viertel)、橋(Klemensbrücke)の下の広場、Kaiserswerther Marktでは、例えば、ワイン祭り、ジャガイモ祭りなど、週末には数々の催し物が開かれます。催し物がない時でも、夏のお天気のいい時には、駅付近、Kaiserswerther Markt、川沿いなどのレストランは、いつもたくさんの人でにぎわっています。金曜日の午前中には、市(Markt)も開かれています。



<補足説明>
3. Beruehmte Kaiserswerth ・・・ Kaiserswerthゆかりの人5人の銅像がたっています。Herbert Eulenberg (1876-1949), Caspar Ulenberg (1548-1617), Friedrich von Spee (1591-1635), Theodor Flieners (1800-1864), Florence Nightingale (1820-1910)。
6. Haus "St, Josef" ・・・ ドイツ国内で良い状態で維持されている、12世紀のロマネスク様式の建物6軒のうちのひとつです。
7. Altes Beinhaus ・・・ バロック調の丸型のとんがり屋根を持つ納骨堂です。
11. Seidenweberei ・・・ かつての絹織物工場。1809年には、149人の職人などがおり、年間2000の織物を生産していました。
16. Stammhaus des Diakoniewerks ・・・ U-バーンの駅の東側には、Diakonieの病院がある。イタリアの良家に生まれたフローレンス・ナイチンゲールは、1851年、この地で看護婦になるための勉強をし、イギリスに渡りました。
1. "Haus Freiheit"
2. Kaiserpfalz
3. Berühmte Kaiserswerther 
4. Suitbertuskirche
5. Geburtshaus Friedrich von Spees
6. Haus "St. Josef" 
7. Altes Beinhaus 
8. Probstei
9. Kaiserswerther Markt
10. Altes Zollhaus
11. Seidenweberei 
12. Gasthaus "Im Schiffchen"
13. Funde aus der Zeit der Stadterhebung
14. Das alte Rathaus
15. Die alte Apotheke
16. Stammhaus des Diakoniewerks 
17. Gedenksteine an der Klemensbrücke
18. "Am Mühlenturm"
19. Windmühle, Wasserwerk und Jugendherberge
20. Das Pfarrhaus-
Keimzelle der Diakonie
21. Schule



《St. Suitbertus教会》

史料がほとんど無い為正確な起源は不明ですが、700年頃にはアングロサクソン人であるSuitbertusが聖ペテロの為にこの地にベネディクト修道院の教会を建てたことが分かっています。Suitbertusは713年に亡くなりこの教会に埋葬された後、796年に聖人として加えられました。聖Suitbertus教会と名付けられたのは900年頃と言われています。

教会の建物はその後4段階に渡って少しずつ増築され、今日の身廊などは11世紀半ば、東部分と柱廊玄関は13世紀半ばに建てられました。1870年〜1877年にかけて全体的な修復が行われ、2本の西塔が築かれましたが、第ニ次世界大戦で破壊されました。その際、教会内部も戦争により激しい被害を受けましたが、その後17世紀当時の建築に倣って修復され、現在の美しいニーダーライン風のバジリカになりました。塔は再建されず、小塔のみが付け加えられました。

・内陣にある聖餐棚と聖遺物棺 15世紀
・木製の鷲の斜面机 18世紀


●宝物
・Suitbertusschrein
最も価値の高いものは、聖Suitbertusの聖遺物(遺骨)が納められているSchrein(箱)で、13世紀のオーク材でできており、金メッキを施した銅板が打ちつけられています。毎年9月には、このSchreinを担いでカイザースベルトの街を練り歩く行事が行われています。
・後期ゴシック(1465年頃)時代の鉄製の3つの燭台。

●教会周辺
教会を取り囲む広場は、デュッセルドルフ市内でも魅力的な一角となっています。
1981年の改造の際に、教会の南方で建物の基礎部分が新たに発見されました。それは現在 のバジリカの 前建築で広間の一部であると考えられています。 100年間に改築又は新築された家々には長い歴史が感じられ、絵画的な印象を与えています。当時は治外法権の場所でした。

東と北側には17‐18世紀の家屋が残っています。寄棟屋根と切妻階段を持つ2つの棟(No.3牧師館)、 18世紀の吹きぬけのある副司祭の家(No.9/10)、 病院の敷地内にはドイツ国内でも6つしかない13世紀半ばのロマネスク様式の家 St. Josefがあります。


●教会側面にはめ込まれたレリーフ
 広場に面した教会のSeitenchore外側の壁にはめ込まれたブロンズ製のレリーフからKaiserswerthにおける中世の苦難の歴史をうかがい知ることができます。1591年Kaiserswerth生まれのイエズス派Friedrich Spee の苦難の人生が描かれています。30年戦争、魔女狩りなどの際、自らの危険を顧みず時の権力と戦い、民の支えた彼はヨーロッパを震え上がらせた伝染病ペスト、その際病人の看病に努め1635年命を落としました。
このレリーフに描かれた魔女迫害など困難と闘うSpeeの姿及び近年におけるナチスドイツ時代の困難などを通し平和、
自由の大切が表現しています。
デュッセルドルフ在住の著名な芸術家Bert Gerresheim作(彼の有名作品はBurgplatzそばのStadterhebungsmonument))



≪Kaiserpfalz≫

ライン川フェリー乗り場のすぐ近くに黒く頑丈な見るからに古い城壁跡を見ることができ ます。赤ひげ帝Barbarossaに ゆかりの地Kaiserpfalzです。


●Pfalzとは
神聖ローマ帝国の初期の居城。当時帝国の支配地現在のフランス、ドイツでは皇帝や国王 は定住せずPfalzを巡回して一定期間住み裁判、政治を行っていました。


●歴史
1045年にkaiserswerthの一部が皇帝領となった後、1174年Kaiserpfalz建設の費用を捻出するため皇帝Friedrich Barbarossaはライン川を航行する船から税金を徴収する税関Zollを置きました。1184年に完成したKaiserpfalzは3身廊のバジリカ構造でした。ドイツ皇帝と関連が深くなったがゆえにKaiserswerthは権力争い戦争にしばしば巻き込まれました。1273年にはケルンの大司教管轄地へその後フランスの勢力域に再び1692年ケルンの大司教管轄へ、そのたびに補強され壁の厚さは4.5m、Bergfrieds(物見やぐら)も増築されました。しかし1702年のDer Spanische Erbfolgekrieg(スペインの王位継承戦争)の戦場となり廃墟となってしまいました。


●戦争にまつわる碑文を見ることができます。
“DIESER DENKSTEIN BEFAND SICH UEBER D.HAUPTPORTAL
 DES 1702 ZERST.SCHLOSSES 1705 NACH DUESSELDORF 
U.1849 WIEDER NACH KAISERSWERTH BEBRACHT.”
(この記念石碑は城=Pfalzの正面玄関にあった。1702年の攻撃の後デュッセルドルフへ1849年再びKaiserswerthに戻された)

●見学
夏場のみ開門
月曜‐金曜: 15−19時
土曜日曜祝日: 10−19時
夏場の週末コンサートがしばしば催されます。