デュッセルドルフの教会(2004)

St. Maximilian教会 
Johannes教会
St. Lambertus教会
St. Andreas教会
St. Margareta教会

 

St.Maximilian教会

<歴史>
St.Maxmilianの歴史は1651年6人のFranziskaner(フランシスコ会修道士)の活動から始まります。4年後の1655年市民、貴族の寄付で修道院、教会が建設されました。その後、修道院の建物は拡張され、教会は1737年10月4日に再建築されました。St.Maximilian は1805年までSt.Antonius von Padua(聖アントニウス・フォン・パデュア教会)という名でした。Schulstr.、Citadellstr.、Baeckerstar.で囲まれた修道院敷地内には学校やKlosterbrauerei(ビール醸造所)もありました。ナポレオンのデュッセルドルフ入場後、教会公有化(Saekularisation)が進み1803年Franziskaner修道会は解散、1805年教区教会となり名をSt.Maximilianと改めます。第2次大戦で大きな被害を受け修復には1964年までかかりました。


<建築様式>
バロック様式、内部は3廊(Mittelschiffと2つのSeitenschiff)構造、煉瓦造Hallenbau(3廊式の多くの場合Mittelschiffの天井がSeitenschiffの天井より高いがHallenbauの場合高さは同じ)、Mansarddaecher(腰折れ屋根、勾配が上部が緩く、下部は急)の上に小さなたまねぎ型の丸屋根。

<内部装飾>
・パイプオルガン・・・Mendelssohn-BartholdyやSchumannが演奏したパイプオルガン(1753年から55年製造)はライン川沿岸地域にある演奏可能なオルガンとしては最も古いものの一つ。
・Adlerpult(鷲の聖書台)・・・1449年作ブロンズ製、Altenberg修道院(ケルン近郊)から譲り受けたAdlerpultはアアヘンのドームのAdlerpultと並んで貴重なものです。
・Chor-Gestuehl(聖歌隊席)・・・旧教会時代からのもので17世紀末から1720年のもの
・彫刻・・・hl.Barbara、ImmeaculataはGrupelloの工房で製作された。
・Madonna vom Gnaden-Auge・・・Jan Wellemの父、Philippは故郷NeuburgのSt.Peter内で奇跡を起こした祭壇画の複製を作らせこの教会に置きました。多くの人がマリアの目が慈悲深く動くのを体験し、下記のような秘力が信じられています。入り口右手のチャペル内。
Heilige Muttergottes vom Gnadenauge,erhalte uns das dreifache Licht: das Licht der Augen,das Licht des Verstandes、das Licht des Glaubens、und lass uns einst leuchten das ewige Licht!

旧修道院:1807年から1814年詩人のHeinrich・Heineはこの修道院内のGymnasiumに通いました。Citadellstar.には石版があります。彼は1854年"Geständnisse"でデュッセルドルフでの学校生活を記しています。また、その隣には当時ビールの醸造所がありました。1836年にはSchuhmacher Altがそこの井戸水を使い醸造をはじめました。(現在はOststraßeに移転)。教会入り口右のチャペルよりKreuzgang(回廊)を見ることが出来ます。
Johanneskirche

Immermannstraßeと Berliner Alleeが交差するデュッセルドルフの中心部にそびえ建つ赤レンガ造りの教会がJohanneskircheです。デュッセルドルフ市で初めて、町の中心に建設されることが許されたプロテスタント教会として重要な意味を持ちます。また、今日では"Stadtkirche"として様々なコンサートや催しものを通じて、教会と市民との交流の場としても重要な役割を担っています。

<歴史>
19世紀に入ると、プロテスタント教会は分裂していたルター派と改革派の統一を目指すようになりました。デュッセルドルフではその統一の象徴として大きなプロテスタント教会を町中に建てようという計画が持ち上がりましたが、教会建設資金が足りずになかなか進みませんでした。1855年になって、ようやく教会建設の為の基金が設けられました。その頃には教団の数も7000に膨れ上がっていました。



しかし、当時のデュッセルドルフではカトリック教会が優勢であり、プロテスタント教会は建物の裏などの目立たない場所に隠れる様にして建っていましたので、公道に面した街中への建設に反対の声もありました。
1859年、カトリック市民の反対にもかかわらず、町の中心であるKönigplatz(現在:Martin-Luther-Platz)に建設されることが許され、1874年についにデュッセルドルフ市と教団との契約が結ばれました。当初の設計ではベルリンの駅を設計して名声を得たベルリンの建築家、A.Kyllmann と A.Heyden(当時Krefeldに住んでいた)による、ロマネスク様式とゴシック様式で丸屋根を持つものでしたが、多額の費用がかかることや周辺住民からの抗議等の問題があり、度々の変更の後、半円アーチ型のネオロマネスク様式となりました。1880年にJohanneskircheという名称が付けられ、1881年に内部の装飾建築が施されました。このようにして1881年12月6日に献堂されましたが、当時ドイツ国内で建築された最もすばらしい教会だと言われていました。
第二次世界大戦の激しい空爆によって教会は破損しますが、幸いなことに多くの部分は残りました。一時は場所を変えることも考えられましたが、同じ場所で残っている部分を生かして1953年に再建されました。


戦前の教会の姿

新しい教会は入口側にカフェ、後ろ半分が礼拝堂となっており、礼拝堂は礼拝だけでなく、コンサートにも適した設計となっています。カフェはセルフサービスですが料金も安く、静かに時を過ごすのにお勧めです。
また、毎週水曜日には"Lunch-Time-Orgel"(12時半〜、無料)として軽食を取りながらオルガンコンサートを聴くことができます。(食事の持ち込み可)

<建築様式>
2階席のある3身廊で、ラインラント地方では珍しい赤茶色のレンガ造りです。縦の回廊が短く、内陣を中心としてコンパクトに一つにまとまっています。ネオロマネスクとゴシックの混ざった、ベルリン風の半円アーチの窓を持ち、塔の高さは85.7mで市内のどこからでも見えるようになっています。
建設当時の教会内部は19世紀の教会様式の特徴が強く出ており、コリント式の柱などイタリアルネッサンスの引用も多く見うけられるものの、一体感のある仕上がりとなっていました。現在の礼拝堂内部は木製の十字架が中心となり、それ以外の装飾は一切無く簡素なものになっています。

<内部装飾>
・Kreuzifix(十字架)〈1950)木製、Professor Rickert作
・パイプオルガン(1952)Beckerath(Hamburg)作 北ドイツのパイプオルガン

 

 

 

 

St.Lambertus教会

デュッセルドルフ・アルトシュタットのライン川沿い位置し、デュッセルドルフのシンボルとも言われる大きなゆがんだ尖塔が特徴の教会がSt.Lambertus教会です。

<歴史>

この教会の起源については史実の記録が無い為よく分かっていませんが、デュッセルドルフ市内で最も古く、デュッセルドルフがまだ小さな村だった頃に在った礼拝堂(Marienkapelle)が基になっていると言われています。小さな礼拝堂は13〜14世紀に少しずつ増築され、1394年にようやく現在の様な3身廊の教会となりました。

WillhelmU世の統治の時、3つの祭壇を寄贈し、7月23日に聖Apolinarisの聖遺物(遺骨)がRemagenから運ばれました。それ以来、デュッセルドルフは巡礼地となり、聖Aplolinarisはデュッセルドルフの守護神となりました。St.Lambertus教会の一番の宝はこの遺骨といえるでしょう。デュッセルドルフでは毎年7月にRhein川沿いで大規模なKirmesが行われていますが、これは聖Apolinarisの遺骨が運ばれた事を祝したことに由来します。(KirmesとはKirchmesse(教会建立記念日)の低地ドイツ語)


<建築>

外見は簡素なレンガ作りで、幅広の3つの身廊・回廊ともつホール教会堂で、ゴシック期の典型です。内部は1870年頃に大規模な修復が行われ、装飾窓は全て新しくされました。(バロック様式)戦争による被害を受けましたが、1960年頃までに塔の屋根や内陣、装飾品などが修復されました。
曲がった塔については諸説あるようですが、1815年の冬、落雷によって塔が火災する被害にあい、その修復の際に、SchlossmeisterであったJosef Wimmerは、まだ湿り気のある真新しい木材を使ってしまった為、木が乾燥して収縮し、捻じ曲がってしまったそうです。教会の宝物室にはJosef Wimmerのシルクハットが展示してあります。

<内部装飾>

・中央主祭壇(1688〜1698) バロック様式。選帝候の彫刻家Michael Chatelanの作。
・4つの側祭壇  18世紀初頭
・聖餐棚 15世紀半ば、後期ゴシック、 すばらしい石工技術。Wilhelm3世とその令室により寄贈。
・選帝候Wilhelm des Reichenの壁面墓石。16世紀ルネッサンス。ケルンの彫刻家Gerhard Scheber作。
 側面のレリーフ「最後の審判」も価値がある

 

 

St.Andreas教会
アルトシュタット、K20など美術館の建つ一角にあるSt.Andreas教会はデュッセルドルフの最も華やかだった時代17世紀、18世紀を代表する建築物です。この時代、デュッセルドルフを治めていたPfalz-Neuburg家はバイエルン王家Wittelsbach家の親戚筋にあたりデュッセルドルフへ新しい文化の風を吹き込みました。

<歴史>

デュッセルドルフを統治していたユリヒ・クレベ・ベルグ公爵家(Herzogtum Juelich,Kleve und Berg )の後継ぎが途絶えた後、母方の親戚筋に当たるドナウ川沿岸のノイブルグ(Neuburg)に居を構えていたプファルツ・ノイブルグ公爵家(Herzogtum Pfalz-Neuburg )に統治が引き継がれました。ノイブルグ家はバイエルン王家Wittelsbach家と深い関係を持つ親戚筋でヴォルフガング・ウイルヘルム公爵(Herzog Wolfgang Wilhelm)は新しく統治することになったデュッセルドルフに1619年イエズス会修道士を送ると共に1622年新しい教会St.Andreasの建築をはじめました(完成1629)。時代はカトリックとプロテスタントの間のヨーロッパ全体を巻き込む戦争、30年戦争のさなかでした。

St.Andreasは役割上二つの顔を持っていました。17世紀後半の西側にはイエズス会のカレッジが建設され1773年までイエズス会の修道院としてまたPfalz Neuburg家の宮廷教会(Hofkirche)としての役割を持っていました。1708年には正式に宮廷教会となりましたがそれ以前、1650年ごろにはMausoleum(公爵家の霊廟)が設けられていました。祭壇横には公爵家の人々が祈りをささげる「公爵の間」がしつらえられました。

ナポレオンの遠征により多くの教会が市民に開放され教区教会になったように、St.Andreasも1842年より教区教会となりました。第2次大戦では中央祭壇部分に大きな被害を受けました。現在はNRW州の所有。1972年よりドミニコ修道会が州よりかりうけています。


< 建築>

後期ルネッサンス、前期バロック建築。カラフルな明るい黄色の色調、内部の化粧漆喰などニーダーライン地方では他に例を見ない特徴を備えています。
・十字形アーチの丸天井のある明るい三廊構造(身廊と両脇の側廊)
・ 化粧漆喰(Wolfgang Wilhelm時代)
・ Mausoleum(霊廟)(中央祭壇脇の「公爵の間」から中に入る)
Wolfgang Wilhelm‐Philipp Wilhelm‐Johann Wilhelmの3代の公爵の棺とその家族の棺が12角形のMausoleumに安置されている。

< 内部装飾>

・ 入り口上部に教会を建築したヴォルフガング・ウイルヘルム公爵の胸像
・ 等身大聖人  キリスト・十二使徒・福音伝道者など
・ 中央祭壇両脇の説教壇、祭壇画(1650年ころ)
・ 中央祭壇,当時のデュッセルドルフ芸術大学教授エドワルド・マタレー作(1960年)
・かつての中央祭壇画「聖アンドレアスの殉教」(中央祭壇横手「公爵の間」
・入り口上部のパイプオルガン(選帝侯カール・テオドラーのイニシャル)

< 豆知識>デュッセルドルフの選帝侯Johann Wilhelmの妻Anna-Maria-Luisa-Mediciはルネッサンス発祥の地フィレンツェのメディチ家出身です。デュッセルドルフが芸術の街として今も栄えているのは彼女の影響が大きいと言われています。彼女の夫で市民に大変人気のあった選帝侯Johann Wilhelm(ヤン・ヴェレムとも呼ばれる)が統治していた頃のデュッセルドルフは非常に栄えていました。彼のブロンズ像は市庁舎前広場にあり、デュッセルドルフを代表する風景の一つになっています。この時代多くの芸術家がイタリアからデュッセルドルフを訪れました。大変仲がよかったと言われる夫妻ですがJohann WilhelmはアルトシュタットのSt.Andreas教会に葬られ、妻のAnna-Maria-Luisa-Mediciフィレンツェのメディチ家礼拝堂に葬られています。夫の死後、彼女にはメディチ家の最後の人物としてどうしてもフィレンツェに戻らなくてはならない重要な任務があったためです。
彼女の弟Gian Gstoneは1737年、最後の公国の統治者としてこの世を去りメディチ家の時代は終わります。彼には後継ぎとなるこどもがいませんでした。Anna-Maria-Luisaが故郷で1737年「公国の協約」を新しい統治者ロレーヌ公と結びます。これには公国のフィレンツェにおける芸術財産の永久の保護がもりこまれました。フィレンツェの芸術品が外国に流出することなく今でも「花の都」としてたたえられるのは彼女のおかげと、フィレンツェでは彼女は尊敬され、とても愛されています。彼女の墓と銅像はメディチ家礼拝堂入り口近くにあります。


St.Margareta教会

St.Margareta教会のあるゲーレスハイムは、デュッセルドルフの東のはずれに位置し、1909年にデュッセルドルフに併合されるまでフランク族の領土として独自の発展を続けてきました。
ラインランドのホーエン・シュタウフェン家の時代の数少ない建築物であり、バジリカ(古代ギリシャ・ローマの公会堂)風の教会です。幸いなことに750年もの間、修復は繰り返されたものの、根本的な補足も縮小も無く今日に至っています。

<歴史>

文書によると、870年にはすでにフランク族の貴族であるGerrichはこの地に財産を築いており、その娘 Regenbierg(870-905)が女子修道院の院長を勤めていました。しかし、919年にハンガリーの進行によって、教会と修道院は破壊されてしまい、のち970年、ケルンのカトリック司教によって修道院が建てられ、1236年、St.Hippolytus修道院の隣にSt.Margareta教会が建てられました。その後、外、内装ともに修復が繰り返され現在に至っています。一番最近では、1974年に続き、2005年8月、世界青年の日にローマ法王がケルンに訪問される前、修復工事が行われました。

<建築>

白い凝灰石の壁にレンガで縁取り装飾され、濃灰色の屋根を持つきれいな教会です。八角柱の形をした塔には、上部半円アーチ型の窓があり、やはりレンガで帯状装飾され、プリーツをかたどった三角屋根も特徴です。また、窓は、半円型、扇型、バラ型装飾、クローバーの葉型、円型など変化に富んでいます。
・ロマネスク様式
・十字形アーチの丸天井のある明るい三廊構造(身廊と両脇の側廊)
・身廊の長さ48m

< 内部装飾>

・主祭壇の聖餐台 (1236年後期ロマネスク)
・キリストを抱くマリア像 (1480年後期ゴシック)
・パイプオルガン
・聖歌隊席(1707年バロック彫刻)
・ピエタ(嘆きの聖母像)
・説教台
・豪華な石棺(1270-80年)
・聖遺物箱
・光を発するマリア像(1480年)
・聖体顕示台(1400年)
・聖遺物を納めた箱(1210年)